黒野こども園

社会福祉法人教泉会

社会福祉法人教泉会黒野こども園の基礎は、初代園長西垣丈吉が大正14 年に岐阜市立徹明小学校改築のため、その校舎を当地に移築し、黒野裁縫女学校を設立し農繁期に 農繁期保育所を併設したことに始まる。

黒野裁縫女学校

その後、沿革にある通り、黒野技芸高等女学校付属幼稚園を経て昭和23 年12月28 日岐阜県の要請により、幼稚園から厚生省管轄による第2種社会福祉事業として保育園を設立し、以来56 年にわたって地域の児童福祉施設として活躍してきた。

また、昭和35 年以来の急激な保育需要にともない、 定員増を余儀なくされてきた。
そのことは、当園が黒野地区の歴史的な発展と共に歩んできている証拠でもある。
このような背景のもと、保育園の社会的基盤の確立、地域社会への貢献、社会構造の変化に伴う今後の保育需要の質的変化・要望に答えるため平成4 年3 月31 日岐阜県知事認可のもと社会福祉法人教泉会黒野保育園として、新たな出発をした。

社会福祉法人教泉会 幼保連携型認定 黒野こども園の特色
当園の正式な幼児教育機関としての前身は、黒野技芸高等女学校付属黒野幼稚園であり、当時、長良川以北では初めての幼児教育施設として注目された。

当時、黒野地区は城下町を中心に、農業を主とした部落が周りを取り囲むといった地域であったが、戦後農地解放により次第に様相を変え、高度経済成長にささえられて、周辺の地域開発は異常なまでになされた。また、団地の造成等により急激な人口増を来し、岐阜市のベットタウン化が進んだと同時に核家族化傾向が進み、ただでさえ農村地帯で措置対象児が多いのに加え、地場産業アパレルを中心とした産業の発展にともない共稼ぎ家庭の増大は、定員増を余儀なくしてきた。その後、昭和57 年度以降の当黒野地区への岐阜大学移転は、徐々に人口増をもたらしてきたと共に、文教地区の児童福祉施設として幼児教育の一端を担っている。

黒野実科女学校、黒野こども園の創設者西垣丈吉は、黒野小学校校長として19 年間勤務した教育者であり、学校長退職後も近隣地区の女子教育を手がけ、その傍ら季節保育所、戦時中には戦時保育所など設置し、銃後を守る婦人の子どもの養護と教育を推進し、社会的役割を果たしてきた。そのためか地域住民からの信頼度も大きく、親の協力体制は極めて多大なものがあった。そのような背景のもと、昭和32 年第 2 代園長と交替したのであるが、初代園長の意志を継承することにより、既に、平成18 年をもって57 才の保育園となり、現在、長時間保育・障害児保育・未満児保育等を実施している。また、新園舎の完成を契機に乳児保育・一時的保育・子育て支援事業を開始し、地域に根ざした保育園・ファミリーサポートシステムを兼ね備えた地域の子育て支援センターとしての役割を担っている。なお、在園児の60%は2 世或は3 世児となっている。平成23 年3 月31 日をもって卒園児は6,564 名の多きに達している。

当園の基本方針は、乳幼児期が人間形成の基礎を築く大切な時期であるとの考えのもと、乳幼児の発達の筋道を正しくとらえ、それぞれの個人差や環境差に心を配り、集団生活を通してすべての面の発達を起進させるような経験を豊かに展開させることである。

また、昭和35 年以来の急激な保育需要にともない、 定員増を余儀なくされてきた。
そのことは、当園が黒野地区の歴史的な発展と共に歩んできている証拠でもある。
このような背景のもと、保育園の社会的基盤の確立、地域社会への貢献、社会構造の変化に伴う今後の保育需要の質的変化・要望に答えるため平成4 年3 月31 日岐阜県知事認可のもと社会福祉法人教泉会黒野保育園として、新たな出発をした。

社会福祉法人教泉会 幼保連携型認定 黒野こども園の特色
当園の正式な幼児教育機関としての前身は、黒野技芸高等女学校付属黒野幼稚園であり、当時、長良川以北では初めての幼児教育施設として注目された。

当時、黒野地区は城下町を中心に、農業を主とした部落が周りを取り囲むといった地域であったが、戦後農地解放により次第に様相を変え、高度経済成長にささえられて、周辺の地域開発は異常なまでになされた。また、団地の造成等により急激な人口増を来し、岐阜市のベットタウン化が進んだと同時に核家族化傾向が進み、ただでさえ農村地帯で措置対象児が多いのに加え、地場産業アパレルを中心とした産業の発展にともない共稼ぎ家庭の増大は、定員増を余儀なくしてきた。その後、昭和57 年度以降の当黒野地区への岐阜大学移転は、徐々に人口増をもたらしてきたと共に、文教地区の児童福祉施設として幼児教育の一端を担っている。

黒野実科女学校、黒野こども園の創設者西垣丈吉は、黒野小学校校長として19 年間勤務した教育者であり、学校長退職後も近隣地区の女子教育を手がけ、その傍ら季節保育所、戦時中には戦時保育所など設置し、銃後を守る婦人の子どもの養護と教育を推進し、社会的役割を果たしてきた。そのためか地域住民からの信頼度も大きく、親の協力体制は極めて多大なものがあった。そのような背景のもと、昭和32 年第 2 代園長と交替したのであるが、初代園長の意志を継承することにより、既に、平成18 年をもって57 才の保育園となり、現在、長時間保育・障害児保育・未満児保育等を実施している。また、新園舎の完成を契機に乳児保育・一時的保育・子育て支援事業を開始し、地域に根ざした保育園・ファミリーサポートシステムを兼ね備えた地域の子育て支援センターとしての役割を担っている。なお、在園児の60%は2 世或は3 世児となっている。平成23 年3 月31 日をもって卒園児は6,564 名の多きに達している。

当園の基本方針は、乳幼児期が人間形成の基礎を築く大切な時期であるとの考えのもと、乳幼児の発達の筋道を正しくとらえ、それぞれの個人差や環境差に心を配り、集団生活を通してすべての面の発達を起進させるような経験を豊かに展開させることである。

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